話しの置き場

話したことの覚え書き

日本の宗教観

父が丁寧にお参りしてたから、仏様を大切にしようと思うし、母の思いを受けたから人を思いやって人の為にしてあげたいと考えるようになった。お釈迦様の教えがあるから苦しいことがあってもまた前を向いて歩き出せる。

親の考え方や思いは祖父母やその前の人たちが培って、それぞれの子に伝えて自分まで残してくれた。だからありがたい。

お釈迦様の生き方、教えを2600年も伝えてくれた沢山の人たちに感謝したいと思う。

日本にも2600年以上の歴史があって、その精神を伝えてきてくれた日本人に感謝の念が絶えない。

日本人の宗教観というのはそういったもの。

昔の人たちとの繋がりと感謝をすることなのだ。

火葬でのお話し

大切な人が亡くなるのは悲しいものです。ですが、それは故人との時間が、幸せであったことの証です。そして、それはお互いさまで、故人も皆さんとの時間が幸せであったということであり、そういった思いで送られることは命尽きてなお亡くなられた方にとって幸せなことです。

今悲しみや寂しさ、惜しむ気持ちなどいろいろな思いが巡っているかと思います。その思いの裏にあるのは楽しかった記憶や、この人のおかげでという感謝の気持ちです。

今日は何度も手を合わせたり焼香をします。作法は相手への思いやりを形にしたものです。だからこそ、何度も手を合わせて、感謝とともに、安らかであることを祈るのです。

 

坐禅会のお話し 人生の仕事

 

「年を取ったで私はもう」と言う方がいます。

今から新しいことはできない。もうこれからの事はもっと若い人に任せるよ。自分にできることはないよ。という気持ちが込められた言葉です。

 

年を取ると人はもう変わらない。そう思う人が多くいます。新しいことはもちろんしない。後はもう、いままでやってきたのと同じように過ごしていくだけと考えておられるようです。

 

しかし、60や70の年になったからといって、人が変わらなくなるということこそありません。80になってポクポクという木魚の音やお経を聞くと気持ちが落ち着くようになったという方がいます。90になって外に出れなくなっても、嫁さんが作るご飯が美味しくてそれが毎日の楽しみで、毎日ありがとうといって暮らすことが幸せだと話してくれる方もいます。

 

よく人が亡くなった時に無常だということがあります。仏教の教えの無常とは、何も人が亡くなることを言うのではありません。時の変化に伴い、肉体だけでなく、心や精神も変化していくのです。

 

体を鍛える為に日々の鍛錬が欠かせないように、急に心が成長することもありません。日々経験し、考え、苦悩したり、喜んだり、時には怒ったり、楽しんだりしながらその積み重ねで鍛えられていきます。

 

もし皆さんがもう十分いろんな事をやってきたと思うのであれば、すでに沢山の人生経験という材料があることでしょう。そして、考えることは調理をするようなもので、素晴らしい料理を作るように、素晴らしい心を磨いていくのです。「そういうものだ」と思えばそれまでで、どんな経験をしていようとも、深く考えることなしには、心は成長してはいきません。

 

きっと考える時間も今から沢山あるでしょう。今すぐに、過去を振り返って自分の生き方とは何かと答えを出さなくてもいいのです。これから1年じっくり考え、或いは10年20年かけて考え続ければ良いのです。肉体は衰えようとも、心は鍛え続けられます。

 

生き方とは、困難な壁を乗り越える方法です。仕事であれ、普段の私生活であれ、落ち込んだり、挫けそうになったとき、悩んでいるとき、立ち直り乗り越える方法が生き方、生きる方法です。

 

そう簡単には、見つかりません。何十年と重ねた経験と、考え抜いた時間があるからこそ皆さんが知っていることです。それをもし、子や孫、若い20代10代、年端もいかない子供たちに教えて上げれば、その子の人生のどれほどの助けになるでしょうか。

 

若い子、子供達は素直です。何でも人の姿を見て育ってゆきます。ただし、きちんと姿で見せて、しっかりと教えて上げなければ学んではくれません。

 

今この年になった自分ができることは、更に更に心を磨いて、その生き方を周りに伝えることです。それが、本当に人の助けになり、いつまでも残っていくものなのです。

 

誰しもがそれぞれ異なる人生を歩んでおり、誰しも一芸一徳が備わっているものです。

 

人はいろんな人と関わり影響を受け、また影響を与えながら日々過ごしています。家族は一番小さな社会であり、礼や道徳は多くを身近な地域社会の中で身に付けるてゆきます。何も子や孫だけとはいわず、言葉を交わし、出会い姿を見た全ての人に、それぞれの生き方を伝えていってほしいと思います。

 

新年の願い

新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 

現在は本堂の工事をしておりますので、元旦に集まることはせず、住職と共に御祈祷のお勤めとなります。1年の始まりということで、これから始まる1年も良い時間を過ごせるようにと、願いを込めるものが元旦の御祈祷です。

 

よく困ったときの神頼みということをいいますが、願いやお祈りはただの他力本願ではありません。自分自身を行動させる為のものです。願いを込めているとき、自然と望む未来を想像するものです。そして人は皆、自分の思い描く姿へと近づいていくものです。お参りであれば祈るといい、子供の頃であれば夢といい、仕事であれば目標といいます。夢を抱けばこそ、そこに向かって歩みを進められますし、はっきりとした目標が定まっていればこそ、明確な計画を立てることができます。心の底から祈る時に思い浮かぶ姿は人生の夢であり目標です。願えば叶うということではありませんが、望まずして望む未来が実現することはないでしょう。だからこそ、目指すべき未来を心に抱くことが大切であるのです。進むべき道が見えればこそ、今を力強く歩んでいくことができるものです。

 

願うことは皆それぞれで構いません。それぞれに願いを込めて新しい年をお迎えしましょう。

信じる力を受け継ぐ

私は一応何事も真面目に取り組むようにしているつもりです。真面目にな方がいいなどということは誰しもわかっていることでしょう。ですが、自分の行動に自信が持てなければ貫き通すことばできません。時には馬鹿らしくなって、真面目にやるなどやめてしまおうかと思う時もありました。

 

そもそも私が真面目にすべきだと考えるのは、子どもの頃の思い出があるからです。いつも好きなことばかりする兄のことを、母が反面教師にしなさいとよく言っていました。それで、一応真面目にやろうと思った記憶があります。また父は行事の前の日には、もういいだろうというところからさらに、2時間も3時間も掃除をしたり支度する人でした。その時は呆れるばかりでしたが、振り返れば記憶に強く残っています。

 

自分を信じる力は、往々にして自分の経験からくると思われがちです。しかし、人から受け取ったところにこそ、自信を与え強く支えてくれるものはあるのです。

 

優しく穏やかな自分を育てる

誰に対しても優しくあり、自分自身もいつでも穏やかな心持ちでいたいと思うものです。

ときどきこの人は怒ることがあるのだろうかと思うような人がいます。しかし、誰しもイライラしたり、怒りが湧いてくることはあるものです。穏やかな優しさを持つ人は、その怒りの収め方を知っているからです。

 

怒りが湧いてきた時、自分自身のその気持ちに気がついているでしょうか。中には、瞬間湯沸かし器のように、唐突に怒りが頂点に達して止められない人もいます。ただ、よくよく考えてみれば誰でも怒りの感情が生まれた瞬間は我を忘れます。しかし、それは言葉を口にする間も、手を出す間もない一瞬のこと、その次の瞬間には我を思い出します。そのまま怒りをぶつける人は、そう意識することはなくとも自分自身でアクセルを全開にして、怒りをぶつけているのです。

怒りをコントロールしたいのであれば、まず自分の怒りを知ることです。皆さんは自分の怒りの原点を考えてみたことはありますか。何に怒り、何が許せないのか、なぜその言葉が許容できないくて、その行動が認めらない理由はどこにあるのか。自分の気持ちは考えるまでもなく分かるようで、誰しも掴み切れていないものです。怒りは心の底から湧き出る感情です。怒ってなお冷静に見つめ分析すれば心の奥底が観えてきます。

 

そして、自分の心同様に相手を観察してみるのです。他人の心はいきなりには見えてきません。まずは相手の人物を認めることです。どんな性格、人柄であり、どんな活動、仕事をしており、どんな生活をしており、どんな趣味趣向があり、どんな癖があるのか見定めて、相手は自分とは異なるひとりの人であることを認めることです。そこで初めて相手の言葉を冷静に聞くことができるようになります。相手の人となりを踏まえればこそ、その言葉に含まれた意図や真意が理解できます。意図や真意が分かってようやく、他人の心は観えてくるのです。

 

さて、自分と相手の心がはっきりと観えてこれば、どこが衝突しており、何がすれ違っているかも分かってきます。怒っている時、他人を絶対に受け入れられない、認められない、何があっても聞き入れられないと思っています。しかし、解決の糸口が絶対にないということはありません。論点が明確に分かれば、問題の解決に向けて考えられるものです。

ここまで進めば最早、感情をぶつけるものでもなく、向けられた感情に振り回されるものでもなくなります。

ここから先は相手を導くこととなります。気持ちを吐き出させ、心を見せてもらうのです。論点と課題を明確に把握して、相手の気持ちを解決に向けた道に乗せてあげるのです。

 

課題解決の為には、多くの知識を備え、多くの方法を吟味せねばなりません。自分の頭の中から出てくるものだけでは十分ではありません。相手の話しを聞くだけでも足りないものです。その他の外へも解決の方法を求めるのも、お互の納得できる答えにたどり着く為に必要です。

それはそのまま誰かに相談して答えをもらうということばかりではなく、常日頃から広く見識を集めることです。直接関係のあることでなくとも、物事の捉え方や発想、立場の違いによる判断の変化を学ぶのです。それは結果や耳に入る言葉をそのまま受け取る表面的なことではありません。その奥で動く人の心や考え方に視点を置くことです。

 

さすれば次第に心は広くなります。心が広いとは受け止める器が広いのではありません。広い見識と深い思考があるからこそ、どんなことも受け止め解決する手立てを見通せる大きな世界がある。それが、広い心なのです。

あなたが残せる宝

日本の武道や伝統的な工芸品等の文化は知識や技を教えることだけが、伝え残すことではない。その技法や作法はただの技術や形ではなく、その裏には意味がある。何の為の、誰の為のという物を思い、人を思う心を学び、生き方の役に立てていくことが、その伝統文化の全てを受け継ぐことになる。またそこまで教えてこそ、伝えたといえるであろう。

 

また、伝統技術の多くは、何十年という時間をかけて習得していくものである。技術を磨き追求することに終わりはなく、生涯をかけて磨き続けるものである。終わりなき探求心、終わりなき向上心も伝統文化に受け継がれる精神のひとつだと思う。

物事を教えるとき、言葉だけでは伝わりきらない。特に精神的なことは、その姿を見て、ハッとさせられたときに誠に受け継がれるものである。

であれば、終わりなき向上心を我が身で示してこそ、真に伝え教えていると言えるだろう。歳を取ったから私はもうよいなどと言うことなく、自分自身がさらなる上を目指し続けてこそ、若い人も動いてゆくというものである。

 

人は誰しも歳をとる内、体が動かなくなる。されども、人の精神は考えることを辞めぬ限り成長し続けるものである。心の成長に終わりなく、故に文字通り死ぬまで続く終わりなき探求である。精神的なレベルは自分より下は見えるが、自分より上は見えないものである。であるから、人は皆今の自分の考え方で完成されていると思いこんでしまう。だからこそ、常に未熟を認め、上を目指す気持ちを忘れてならない。

 

そして、積み上げてきた、人生を生き抜く心のあり方や物事の捉え方を教え伝えていくことが、歳を重ねた者の役目である。

人生を生きる精神、心、生き方、これこそが、後の世を生きて行く人の一生の間、役に立つ宝である。

どうぞあなたの宝を残してやってください。