昨年子供が生まれました。今は子育てに励んでいます。
親に似てか食べるのが好なようでご飯はよく食べます。おかげで会う人によく食べそうな子だねと言われます。
生まれたばかりの赤ちゃんは皆可愛いもので、誰でも大抵かわいいねと言われますね。
人間、生まれながら容姿に違いはあれども、産まれた時は皆可愛いものです。私たちが産まれたばかりの赤ちゃんを見て醜いと思うことはありません。それは純粋な赤ちゃん。その純粋であることを見てそう思うのです。
そして年を取ると可愛いとは言われなくなります。歳を取ると美しいと言われるようになります。男性でも女性でも関係はありません。大人になり、歳を重ねて美しいと言われる人は皆、その心の、内面の美しさ、美しい考え方を見て美しい人だと評されるのです。
真に人を見る目のある者は、その人の外側だけでなく、その先に内までも見る人のことです。人の美しさを見出すには、まず自分自身が内面を見る目を持たなけばなりません。
私たちは次いぞ、悪い所に目を向けがちになります。
されど、他人は自分の鏡のようなもので、相手が嫌な態度をするなと感じた時、相手の方も自分に対して嫌だなという感情を抱いていたりします。他人の悪いところが気になる時、実はそれが自分の悪いところであったりします。
車を運転していると時々煽られる事があります。嫌だなと思うのですが、自分のことも考えてみると、急いでいる時はついつい車間距離を詰めがちになっているなと気が付きます。一方で後から近づいてくる車がいた時道を譲るとお礼のハザードランプを点けて通って行く事もあります。大した事ではないけれどなんだか自分も嬉しくなります。
自分が相手を思いやれば、その思いやりが返ってくることもあります。相手の良いところ見れば自身の良いところも認められるようになってきます。
贈り物をした後に、そのお返しを頂くようなものです。
結婚だったり、出産だったりお祝いをもらったらそのお返しをするかと思います。
お土産を上げたら、また別の機会に相手からもお土産をもらう。そんな事もあるかと思います。
必ず一対一で帰ってくるわけではないし、何も返ってこないこともあります。こんなにしてあげてるのにと思うこともあるでしょう。
しかし、これは布施、施しであって、返ってくるもの求めてするわけではありません。
また、ただ自己満足なのかというとそういうことでもありません。相手が喜ぶことを自分も喜ぶのです。同じくする事と書いて、同事と言い、他人事を自分事として感じて、喜ぶことです。
人の心を見つめ、人の為に心を尽くす。また、相手に喜んでもらうことで、自分の心の満たされることを感じる。それが人の内面を見る目を持つことであり、その繰り返しによって内面を見る感性は磨かれていきます。
他人の心、同じように自分の心を見つめられるようになった時、自分がなりたい美しい自分の姿が見えてきます。私たちは自分が思い描く自分の姿へと近づいていくものです。
今より美しい姿を思い描く程に、美しい心は育っていきます。
心の成長に終わりはなく。
なればこそ歳をとり生きている限り、美しさを磨き続けることができるのです。