話しの置き場

話したことの覚え書き

大切な人を亡くし哀しむ人へのお話し

 

世の中に永遠に変わらないことはありません。常は無く無常です。人もまたいつかは皆、命尽きてしまいます。

そんなことは分かっていますが、それでも、悲しいものです。涙もでます。人がひとり亡くなるということは、それだけ心に大きな衝撃を受けるものです。身近な人、大切な人であれば尚のこと。お釈迦様の亡くなった時も同じだったと伝わっています。多くのお弟子さんが、人々が、動物や生きとし生ける者が皆、悲しんだといいます。

 

されど、それは私たちが幸せに過ごさせて頂いた証です。楽しませてもらった、いろんなことを経験させてくれた、人生の生き方を見せてくれた。その中で学ばせてもらって、今の自分という人間がいる。だからこそ、その人が亡くなって悲しみは大きけれども、それと同じくらい確かな気持ちで、感謝を込めて故人の安らかであることを祈りたいと、そういう気持ちが自分の中から湧いてくるのです。

 

私たちが故人と過ごした思い出の時間が幸せであったというのなら、それはお互い様です。亡くなられた方にとってもあなたとの日々が幸せであったということです。

そして、心からのそういった思いで送られることは、命尽きて尚、亡くなった方にとっても幸せなことです。

 

さらには、故人との思い出や時間があって、今の自分がいると思えるなら、それは、その方の生き方を受け継いでいるということです。思いでの中の自分が嬉しかった、楽しかったと感じた感情は皆さんがその時に何かを受け取ったということです。故人に対する、ご自分の気持ち、感情をよく見つめてみてください。火葬に伏されれば肉体は無くなりますけども、その人の心や生き方は皆さんの中で生きていきます。

 

私たちは多くの人と関わりながら、その関わりの中でお互いに影響を受け、影響を与えています。自分と異なる他人の姿を見て、学び取ることで、自分の生き方の糧となり、心は成長しいきます。

 

私の兄は昔からやればできる、そつなくことをこなすけれど、不真面目ですぐにサボろうとする人でした。家の手伝いなども、私ばかりさせられて、いつもずるいなと思っていました。母にはよく反面教師にしなさいと言われていましたので、そんな姿と言葉を受けて、真面目にすることが大切だと思うようになりました。その時はただ嫌だなと思いながら家やお寺の手伝いをしていましたけれども、その中で、父母の苦労している所も見ていましたので、困っている人がいれば手を貸すべきだと、相手の事を思うことを学んだように思います。そもそも、私の父が、いわゆる真面目で一徹な人でしたし、他人を攻撃しない優しさをもつ人でしたから、その姿を見ていたからでもあります。兄も一緒に修行に行った時には、すでに他の場所で修行した経験もあり、もともとの要領の良さもあって、ずいぶん助けられ頼りにしました。そんな部分は見習わねばと思いっているところです。そして、家ではどうしようもない兄ですが、それでも、大切な息子と言うことか、見守る母の優しさも知っています。

 

皆さんが受け継いだことをご自身の生き方の糧としてこれからも人生を歩んでゆくなら、今度はあなたのその姿から周りの人へと伝わっていきます。

 

私たちはそうやってずっと昔から大切なこと、心や生き方を受け継いできました。だからこそ、たとい亡くなられた方であっても大切にし、丁寧にお送りするのです。

 

その気持ちは手を合わせたり、焼香の作法に込めて冥福をお祈りいただきたいと思います。お葬式に限らず、様々な作法はもともと相手への思いやりを形にしたものです。だからこそ、その気持ちは作法に表れ、その作法に気持ちを込めて祈りを届けるのです。

 

今は悲しみが多けれども、なればこそ、故人のことを思い、安らかなことをお祈りください。