話しの置き場

話したことの覚え書き

怒りを収める術

怒りは相手の行動や、言葉に対しておこる。

何に対して怒りが湧いてきているか考えてみると、往々にして、目に見える表面的な部分に対してである。

しかし、目に見えることというのは、一面的なことであり、その本質はおろか、極々小さな要素である。

その小さな一面だけを見て私たちは怒りを起こしているのだ。

 

であれば、多方面から見つめ直してからでも良いのではないか。

いろいろな角度から見ると、怒りを覚える行動や言葉も、また違った見え方がしてくるものだ。

 

まずは、相手の意図や思い、考え方。

人の為を思っての厳しい言葉ということはよく言われるが、そう言われたとて納得はいかないもの。

自分自身で相手の心に思いを巡らし、その言葉をかけることで、どう成長させたいのか、どこを目指そうとしているのかまで観えていればこそ、厳しい言葉、一見して否定的な言葉も前向きに受け取ることもできるだろう。

 

そして相手の人と柄、性格、癖はどうであろうか。

先ほどとは逆に、受けてが相手の行動に意味を見出すが、本人には何の意図もないということもある。

何気なく使った言葉や、いつも通りの行動が、思いがけず人を怒らせてしまった経験もあるだろう。

その人に取っては特に意味はなく、ただいつも通りのことなのかもしれない。

一般的に否定的な所作であったり、言葉の使い方であるかもしれないが、よくよく普段の癖や人となりを見ていれば、相手に悪意のないことも見えてこよう。

それで、その言動を許容できるかどうかは別であるけれども、無意識で、気が付きもしていないことに怒りを露わにしても、相手も戸惑うばかりで、物事の解決には繋がらない。

それこそ、暖簾に腕押しである。

 

怒りは収め、打ち負かすのではなく、自分の負けとするのでもなく、相手の性格や人となりをそういう人だと認めることである。

そして、冷静に相手をさらに観察して、どうしたら本当に相手をより良く変えてゆけるか、その答えを探していくべきである。

けんかは同じレベル同士でしか起きません。

相手と衝突せず、相手をより良く導くには、自分が人間的に遥か高みにいなければなりません。人間を磨くは一朝一日ではできぬこと。故に時に我慢も必要となります。

されども、自らを高みへ磨き、相手をも高みへ引き上げる。怒り、衝突することと比べれば遥かに良い選択であることは納得できることと思います。

 

人は自分より上の人間的な高みを理解できません。今の自分よりまだ上があることすら知ることができないものです。

されど、高みはあります。遥か高みまであります。故に、自らの人間性を磨くことに終わりはなく、また、自らの成長は人生の喜びとなるものなのです。

子の為に残すもの

みんな物を残そうとするんですよ。

形ある者とか、物理的に、あるいは金銭的に迷惑にならないようにとか、目に見える形で子に物を残そうとするんですよ。

でも、それは一時的なもので、残すと言いつつ、残っていきません。

子に残してやって、その子の一生役に立つのは、心を残すことなんですよ。

何でもありがとうと言ってやってもらう。それが今を幸せに生きるあなたが見つけた生き方です。それにいつから気づいて生きていますか?

その生き方に気づくのに何十年かかりましたか?

それをまだ50のあなたの子供に教えてあげたら、あなたの子は50から今のあなたのような幸せで穏やかな気持ちで生きていけます。その子にとってそんな幸せなことはないと思います。どんな物を受け取るより、今のあなたと同じように心を満たして生活できます。

まだ20のあなたの孫に教えてあげたら、20から穏やかな心で自分の生き方に打ち込めることでしょう。それで何を成すか、どんな仕事をして、どんな生活をするかはその人次第ですけれども、自分の心の整え方を知っていれば、迷いなく自分の道を歩んでゆき、そうであればこそ何事かを成し遂げるでしょう。

 

心や生き方を残すことが、子や孫、末代まで子孫の助けになるのです。

それを知っているからこそ、今の自分まで残してくれた先祖を大切にするのです。

今できることは、今この時まで生きて培ってきた心を穏やかに保つ術や幸せを感じる生き方を身を持って、時に姿で、時に言葉で伝えていくことです。

それが子の為、孫の為であり、伝えてきてくれた先祖への感謝を示すことであり、今を生きる私達の責任であるのです。

祈る意味

お寺や神社で願いごとをしたり、祈ることがあります。

 

願っている時、頭の中ではこれから先の未来の情景が思い浮かんでいるものです。例えば健康を願うなら10年20年先の自分が元気に歩く姿や子供が立派に成長した姿を想像するでしょうし、学業の願いなら、試験に合格し両手をあげて喜ぶ姿を想像するでしょう。

 

願うということは、自分の望む未来を想像することです。

 

願うことやご祈祷を昔は常々行われてきました。

 

なぜ未来を望むことが必要であるのか。

 

人は皆、自分が思い描く姿へと近づいていくからです。

 

おしゃれになりたいと思えばこそ、無意識の内に自然と服装は変わっていきます。自分は地味だと思っていれば、もしいい服に出会っても、自分には似合わないと離れていってしまいます。

逆に毎日だらしない格好で過ごしていると、無意識に自分はそういう人間だと思うようになりさらにだらしない人間になっていきます。

 

だから、願うことによって、目指すべき未来をはっきり見つめることが大切なことなのです。

 

進むべき道がはっきり見えればこそ、力強く歩んで行くことができるものです。

 

 

願いが自分を変えてゆく

 

願いはこうなったらいいな、あんな風になりたいなという事をただ誰かにお願いしてしてもらう他力本願の行いではありません。
自分が願う、自分の行いです。
 
願っている時、自分がなりたい、こうしたいと思うことを、はっきりと思い描いているはずです。
 
人は自分が思い描く姿に近いていきます。であれば、未来の姿、自分が望む姿を明確にイメージできればこそ、その姿を実現できるのです。
強く願う人の頭の中には、先々の自分の姿がはっきり浮かんでいるはずです。お寺の法事の時には、身体健全、体が健康であることを願います。本当に真剣に健康を望む人は、1年後、10年後或いは50年後、元気に歩いていたり、話したり、趣味打ち込む自分の姿を想像できています。
 
願うことは何でも良いです。やいたいことでも、なりたい姿でも、欲しいものがあるでもよいと思います。
それを願うことは、より良き未来を想像することになります。
 
願ったことが全て叶う訳ではないけれども願わないより願った方が良いです。
偶々良いことが起こることもありますけれども、それだけを期待して、ただただ待つより自分から進んだ方が良いでしょう。
 
願う意味のもう一つは自覚することです。自分で意識することです。
偶々良いことが起こることもあります。チャンスが巡ってくることもあります。チャンスはタイミング、一瞬のことです。いつでもすぐに捉えられるよう、未来に繋がるチャンスを探す意識が必要です。
 
さらには、願い続ければこそ、実現した時の喜びもなお大きなものになります。
 
お寺で願うも神社で願うも、ただ心で静かに願うも良いでしょう。


自分が願うことから未来は始まります。

 

大切な人を亡くし哀しむ人へのお話し

 

世の中に永遠に変わらないことはありません。常は無く無常です。人もまたいつかは皆、命尽きてしまいます。

そんなことは分かっていますが、それでも、悲しいものです。涙もでます。人がひとり亡くなるということは、それだけ心に大きな衝撃を受けるものです。身近な人、大切な人であれば尚のこと。お釈迦様の亡くなった時も同じだったと伝わっています。多くのお弟子さんが、人々が、動物や生きとし生ける者が皆、悲しんだといいます。

 

されど、それは私たちが幸せに過ごさせて頂いた証です。楽しませてもらった、いろんなことを経験させてくれた、人生の生き方を見せてくれた。その中で学ばせてもらって、今の自分という人間がいる。だからこそ、その人が亡くなって悲しみは大きけれども、それと同じくらい確かな気持ちで、感謝を込めて故人の安らかであることを祈りたいと、そういう気持ちが自分の中から湧いてくるのです。

 

私たちが故人と過ごした思い出の時間が幸せであったというのなら、それはお互い様です。亡くなられた方にとってもあなたとの日々が幸せであったということです。

そして、心からのそういった思いで送られることは、命尽きて尚、亡くなった方にとっても幸せなことです。

 

さらには、故人との思い出や時間があって、今の自分がいると思えるなら、それは、その方の生き方を受け継いでいるということです。思いでの中の自分が嬉しかった、楽しかったと感じた感情は皆さんがその時に何かを受け取ったということです。故人に対する、ご自分の気持ち、感情をよく見つめてみてください。火葬に伏されれば肉体は無くなりますけども、その人の心や生き方は皆さんの中で生きていきます。

 

私たちは多くの人と関わりながら、その関わりの中でお互いに影響を受け、影響を与えています。自分と異なる他人の姿を見て、学び取ることで、自分の生き方の糧となり、心は成長しいきます。

 

私の兄は昔からやればできる、そつなくことをこなすけれど、不真面目ですぐにサボろうとする人でした。家の手伝いなども、私ばかりさせられて、いつもずるいなと思っていました。母にはよく反面教師にしなさいと言われていましたので、そんな姿と言葉を受けて、真面目にすることが大切だと思うようになりました。その時はただ嫌だなと思いながら家やお寺の手伝いをしていましたけれども、その中で、父母の苦労している所も見ていましたので、困っている人がいれば手を貸すべきだと、相手の事を思うことを学んだように思います。そもそも、私の父が、いわゆる真面目で一徹な人でしたし、他人を攻撃しない優しさをもつ人でしたから、その姿を見ていたからでもあります。兄も一緒に修行に行った時には、すでに他の場所で修行した経験もあり、もともとの要領の良さもあって、ずいぶん助けられ頼りにしました。そんな部分は見習わねばと思いっているところです。そして、家ではどうしようもない兄ですが、それでも、大切な息子と言うことか、見守る母の優しさも知っています。

 

皆さんが受け継いだことをご自身の生き方の糧としてこれからも人生を歩んでゆくなら、今度はあなたのその姿から周りの人へと伝わっていきます。

 

私たちはそうやってずっと昔から大切なこと、心や生き方を受け継いできました。だからこそ、たとい亡くなられた方であっても大切にし、丁寧にお送りするのです。

 

その気持ちは手を合わせたり、焼香の作法に込めて冥福をお祈りいただきたいと思います。お葬式に限らず、様々な作法はもともと相手への思いやりを形にしたものです。だからこそ、その気持ちは作法に表れ、その作法に気持ちを込めて祈りを届けるのです。

 

今は悲しみが多けれども、なればこそ、故人のことを思い、安らかなことをお祈りください。

 

豊かな心は私を育てる

昨年子供が生まれました。今は子育てに励んでいます。

親に似てか食べるのが好なようでご飯はよく食べます。おかげで会う人によく食べそうな子だねと言われます。

 

生まれたばかりの赤ちゃんは皆可愛いもので、誰でも大抵かわいいねと言われますね。

 

人間、生まれながら容姿に違いはあれども、産まれた時は皆可愛いものです。私たちが産まれたばかりの赤ちゃんを見て醜いと思うことはありません。それは純粋な赤ちゃん。その純粋であることを見てそう思うのです。

そして年を取ると可愛いとは言われなくなります。歳を取ると美しいと言われるようになります。男性でも女性でも関係はありません。大人になり、歳を重ねて美しいと言われる人は皆、その心の、内面の美しさ、美しい考え方を見て美しい人だと評されるのです。

真に人を見る目のある者は、その人の外側だけでなく、その先に内までも見る人のことです。人の美しさを見出すには、まず自分自身が内面を見る目を持たなけばなりません。

私たちは次いぞ、悪い所に目を向けがちになります。

 

されど、他人は自分の鏡のようなもので、相手が嫌な態度をするなと感じた時、相手の方も自分に対して嫌だなという感情を抱いていたりします。他人の悪いところが気になる時、実はそれが自分の悪いところであったりします。

 

車を運転していると時々煽られる事があります。嫌だなと思うのですが、自分のことも考えてみると、急いでいる時はついつい車間距離を詰めがちになっているなと気が付きます。一方で後から近づいてくる車がいた時道を譲るとお礼のハザードランプを点けて通って行く事もあります。大した事ではないけれどなんだか自分も嬉しくなります。

 

自分が相手を思いやれば、その思いやりが返ってくることもあります。相手の良いところ見れば自身の良いところも認められるようになってきます。

 

贈り物をした後に、そのお返しを頂くようなものです。

結婚だったり、出産だったりお祝いをもらったらそのお返しをするかと思います。

お土産を上げたら、また別の機会に相手からもお土産をもらう。そんな事もあるかと思います。

 

必ず一対一で帰ってくるわけではないし、何も返ってこないこともあります。こんなにしてあげてるのにと思うこともあるでしょう。

 

しかし、これは布施、施しであって、返ってくるもの求めてするわけではありません。

また、ただ自己満足なのかというとそういうことでもありません。相手が喜ぶことを自分も喜ぶのです。同じくする事と書いて、同事と言い、他人事を自分事として感じて、喜ぶことです。

 

人の心を見つめ、人の為に心を尽くす。また、相手に喜んでもらうことで、自分の心の満たされることを感じる。それが人の内面を見る目を持つことであり、その繰り返しによって内面を見る感性は磨かれていきます。

 

他人の心、同じように自分の心を見つめられるようになった時、自分がなりたい美しい自分の姿が見えてきます。私たちは自分が思い描く自分の姿へと近づいていくものです。

 

今より美しい姿を思い描く程に、美しい心は育っていきます。

心の成長に終わりはなく。

なればこそ歳をとり生きている限り、美しさを磨き続けることができるのです。

 

今もこれからも人生で今が一番美しい

 

 昨年、子供が生まれ、子育てに励んでいます。

 赤ちゃんは皆、可愛いねと言ってもらえます。生まれながら容姿に違いはあれども、産まれた時は皆可愛いものです。赤ちゃんを見て醜いと思うことはないと思います。それは純粋な赤ちゃんの、その純粋であることを見てそう思うのです。

 

 そして、年を取ると可愛いとは言われなくなり、美しいと言われるようになります。男性であれ女性であれ、美しいと言われる人は皆、その心の、内面の美しさ、美しい考え方を見てそう評されるのです。

 

 真に人を見る目のある者は、その人の外側だけでなく、その奥の内までも見る人のことです。人の美しさを見出すには、まず自分自身が人の内面、人の気持ちを見る目を持つ必要があります。私たちはついつい、人の姿を見て、悪い所に目を向けがちになります。しかし、その行動、姿の奥にその人の思いはあります。

 

 車を運転していると時々煽られることがあります。嫌だなと思うのですが、振り返ると自分も急いでいる時にはついつい車間距離を詰めがちであることに気が付きます。きっと急いでいて早く行きたいのだろうなと考えて道を譲ると、ありがとうの意味のハザードランプを点けて通って行く運転手もいます。大したことではないけれども、自分もなんだか嬉しくなります。

 

 小さな事ですがそこには心のやり取りがあります。相手を思いやれば、その思いやりが返ってきます。必ず一対一で帰ってくるわけではないし、何も返ってこないこともあります。こんなにしてあげているのにと思うこともあるでしょう。

 

しかし、これは布施、施しです。与える事であって、返ってくるもの求めてするわけではありません。

 だからといって、ただ自己満足でするというわけでもありません。相手が喜んでくれる事を自分も喜ぶのです。同じくする事と書いて、同事と言い、他人事を自分事として感じて、喜ぶことです。

 

 相手に喜んでもらうことで、自分の心の満たされることを感じる。それが人の内面を見る目を持つことであり、その繰り返しによって内面を見る感性は磨かれていきます。だからこそ年齢を重ねるごとに美しさが見えるようになり、私たち自身も美しくなっていくのです。